ヒトリノ夜

 ボヘミアンラプソディを観てきた。クイーンのボーカリストであるフレディ・マーキュリーの青年時代から亡くなるまでの半生を描いたノンフィクション映画である。さすがにスーパースターの半生を描くのには、時間がかかるらしく、上映時間はなんと2時間半。しかし、観てる人々には2時間半をあっという間だと感じさせる、それほどにスピーディかつ惹きつける作品だった。

 普通の映画なら、このシーンがポイントだ!というシーンが用意されているものだが、ボヘミアン・ラプソディは、見る人によって、印象的なシーンがそれぞれ異なりそうな作品である。さすがにスーパースターの半生を描いているものだから、スーパースターとしてのフレディを初め、アーティストとして、家族の中の長男として、難病患者として、同性愛者としてのフレディ、見せどころは多種多様であった。

  僕はどこが一番印象的だったかというと、フレディがポールに乗せられ、ソロ活動を始め、クスリ・ホモセックス漬けになり、そこから復帰するシーンだった。もちろん一番の見せ場のシーンだが、僕にとって印象的だったのは、メアリーに救われるところではなく、フレディが1人でうなだれ、苦しむシーンだった。孤独で、何も信じられない、闇を追い払ったつもりでもまた闇が襲ってくるんだ、あの感覚は痛いほどに分かる。この世の誰も信用できなくなる気持ち。

 あのスーパースターフレディマーキュリーが孤独と闘う姿を見て、みんな同じなんだ、僕も孤独と心の闇に負けないようにしなければ、と思った。

普通の感性

どれほど分かり合える同志でも

孤独な夜はやってくるんだよ

Oh Darlin このわだかまり

きっと消せはしないだろう

 

みんな大好きMr.children名もなき詩の一節ですね。

 

中学生の頃の担任の先生はちょっと変わった人だったから、卒業アルバムの空白の箇所に、クラス全員が全員に対して一言書いて回させた。

 

そのアルバムで、少し仲の良かった友達が、僕に書いたコメントが「誰も真似もすんな 君は君でいい 生きるためのレシピなんてない by 桜井和寿」だった。(ミスチルの終わりなき旅の一節)

 

中学生から既にひねくれていた僕には、ミスチルは一般人が聞くものと映った。なにせ、その当時の僕のカリスマはラルクアンシエル。邦楽には飽き始めハードロックを聞き出していたくらいだから、ザ・J-POPのミスチルに心を動かされることなんてなかった。

 

しかし、時の流れとは不思議なもので。今だってミスチル大好き!とはいかないものの、心に響く歌はとにかく多い。自分の感性が普通に近づいているのかなぁ、と嬉しいような悲しいような複雑な感情を持っています。でも、それはいいとか悪いとかじゃなくて、そう感じるんだから仕方のないことなんですよね。

 

ところで、なぜか僕にはミスチルが現在のカリスマ・村上春樹氏と被って見えることがしばしばあります。どこが被っているかというと、正義と悪のバランスの取り方が似ていて、その小さな正義が勝つことを祈っているところ。

 

ミスチルの歌や春樹の書く小説は、暗い世界の中で少し輝く星をさらに明るくしてくれる、そんなところが似ていると思うのです。

 

それに感動を覚えるところが普通の感性なのかな、と思った木曜日。

 

 

昔から心に扉がある。その扉の開け方は僕も知らない。扉の内側に入ってきた人間を5人知っているが、その入り方は実に様々であった。

 

1人目は、扉の前でとにかく面白いことばっかり言う人だった。でも、なぜか扉の中には入ろうとしない。僕の深い中の部分に入ることには興味がないようで、扉の外で面白いことばっかりしている。あんまり面白いから、自ら内側の鍵を開け、その人を入れたくなったのだ。入れたらもう出したくなくなった。入れて正解だった。

 

2人目は、扉を高く飛び越えてきた。心を固く閉ざした僕に、外の世界はこんなに楽しいんだと教えてくれた。自ら扉を開けて、外に出向くきっかけになった。扉を開けることの喜びを知った。

 

3人目は、扉をハンマーでドンドンと叩いてきた。そんな強行手段には応じまいとさらに強く鍵を閉めると、さらにドンドンと叩いてきた。そんな戦いが長く続いて、扉は壊れた。戦いに疲れ、2人は手を取り合った。

 

4人目は、扉を撫で続けてくれた。ただひたすらに撫で続けてくれた。人に愛されてることを初めて感じて、扉は自然と開いた。

 

5人目は、最初から扉の内側にいた。いや、正確には外にいたんだけれど、最初から扉の内側にいたのではないかと思うほど、よく似ていた。同じ人種に扉を閉める理由はない。扉は開いた。

 

何となく、振り返って楽しくなった。誰が新しい人が入ることはあるのかな。

 

 

 

ブログぽいブログ。

朝目眩がすごすぎて、有給使おうか迷いました、ジェームズです。

 

今日は、カレーの日

 

上司がカレーせんべいとカレービスケットをくれたから、お口はカレーモード。晩御飯はもちろん(?)すき家のカレーにしました。さすがに、「牛丼 カレー」と掲げているだけあって、コンビニやほっ●もっ●よりも美味しい。じゃがいも、人参、お肉も細かく切られていて、アツアツ。福神漬けも甘辛いタイプで、カレーと一緒に食べると美味しい。

 

夜はテラスハウス見るぞぅ。

 

夢を追う若者っていいですよね。しかし、夢を追う権利は大人にもあるって武井壮さんが言っておりました。子どもに向かって、大人がまず夢を見て、自分がその夢を追ってる姿を見せるのが本当の「大人」ななんだと。けど、村上春樹は、上手に諦められるのが「大人」なんだと言っておりました。どっちも良くわかる。

僕も適度に諦めつつ、夢を見ていたい。

ストレス・コーピング

 いつからか、ストレスという言葉をあちこちで耳にするようになった。流行語大賞でも取ってるんじゃないのかというぐらい。職業柄、医学の勉強(初歩的なものですが...)をするようになったのだが、ストレスの本来の意味は、金属に対して圧力をかけたときに発生する抵抗、なんだそうです。それから転じて、生体に圧力をかけるものをストレッサー、ストレッサーを苦痛に感じたとき、その一連の現象をストレスと呼ぶんだそう。

 

 逆に言えば、何か嫌なことがあったときそれを苦痛に感じなければ、それはストレスではない。例えば、奥さんから小言を言われても、「あ〜また小言か、適当に聞き流そう」と、ちくわ耳で流してしまえばそれはストレスではないということになる。

 

 昔、僕の祖母が祖父について語っているとき、「この人の一番いいところはストレスを溜めないところ」と言っていたが、「溜めない」という表現がしっくりくる。ストレスを「発散する」のではなく、最初からストレスと感じていない、すなわち「溜めない」のである。

 

しかし、現実にはちくわ耳で流せることばかりではないので、溜まったストレスをいかに発散するかが大事になる。誰もが自分なりのストレス解消法を持っていることかと思う。例えば、血気盛んな20代女性なんかだと彼氏以外の人とするのがストレス発散だわ、なんて人もいるかもしれない。

 

ただ、最近僕は自分のストレス解消法に疑義を抱くようになった。というのは、今までは読書やら気の合う女の子と遊ぶのが最高のストレス発散だと思っていたが、厄介な仕事の案件を思い通りにすすめられたとき、心がスーーっと軽くなった気がしたからである。このスーーっと、というのは実に物理的な感覚だった。精神が安定する、というよりも心の中の荷物を積み下したかのうような。

 

結局は、仕事のストレスは仕事でしか、人間関係のストレスは人間関係でしか、根本的には解決できないのではないかなぁ、と当たり前のことを思った。ストレス溜まったからってタバコ吸ってもスタバ飲んでも解決しないんだよなぁ、悲しいことに。

 

「真琴ー、理系か文系か決めた?」 「あたし、留学しようかなー」

夏の風物詩、「時をかける少女」のワンシーンです。


普通科の高校に通ってた身からすると、文系か理系かの選択は大変懐かしいもので。(あぁ、もう7年も前の話になるのだ...)


何回やり直したって絶対文系を選ぶんですけど。

ただ、文系か理系かで悩む、というそのシーンは、とにかく懐かしくて、胸が苦しくなるんです。


最近、学生がすごく羨ましいのです。

彼らには時間、エネルギー、そして未来がある。好きなものにかける時間があって、稲妻が体に落ちたような恋を追いかけるエネルギーがあって、何者にだってなれる可能性を秘めている。そんな学生が羨ましくて仕方ないのです。


第一希望の就職先に入社した。社会人になって、1人暮らしを始めて、きちんと自立して、初めてのボーナスで両親を旅行に連れてきた。いわゆる、立派な大人への一歩を踏み出したのかもしれない。 


旅行に連れてきたのは、家族で旅行に行った記憶が皆無だったから。子どものころ、それがすごくコンプレックスでした。夏休みの思い出を書く材料がなくて。そのコンプレックスから、親が連れて行ってくれなかったなら、自分が連れて行けばいいじゃないか、と考えました。それをようやく達成できました。めでたしめでたし。


でも、自分のやりたいことは今の仕事とは別のことなんじゃないか...という迷いと、学生のころもっと夢を追っておけばよかったという後悔を最近抱えていて。


もし、時間を巻き戻せたならなぁ....と思うことが増えました。大人になれない大人です。


そんな大人になれない大人たちが、「もし、時間を巻き戻せたならなぁ...」という思いを抱えている大人に向けて、巻き戻したって意味はない、明るい未来を信じて強く生きよう、きっと、そんなメッセージを込めて作ったんでしょう、時をかける少女」という映画を。